大体2mm「退屈という名の電車の駅のホーム」終了しました

大体2mmのチラシ

タイトルのとおりです。終了しました。実に4年ぶりの演出。ちゃんと活字になってる台本を演出するのはもう8年ぶりとかそんなレベルかも(二番目の庭では2008年くらいから台本使ってませんでした)。達郎くんのユニークな会話劇に挑むにあたって、生まれて初めて真剣に「台本」読んだかも。上演前に演出についてあれこれ言うのは無粋と思って黙ってたけど、終わったから無粋でもなんでも言うぞ。

達郎くんの作品は、強いて分類するなら「不条理劇」ということになるんじゃないかと思っている。まあそこまで突飛なことは起きないけど。で、これを演出するにあたって、とにかく全部肯定しようという軸を決めた。「なんでこうなるんだろう?」と思わない。「台本に書いてあることは理由とか置いといて、起こる」と思う。なので、本を読み込むという作業はせずに、「どう見せたいか?」、「これをやったらどう見えるか?」といううわべの部分を考えた。

話はちょっと逸れるけど、故・立川談志師匠が「落語は人間の業の肯定の芸能」みたいなことを言ってて、お、肯定つながり〜と思って、それで落語の扇子と手拭い(実際は100均のおしぼりタオル)を使うアイデアが生まれました。落語は扇子と手拭いをいろいろなものに見立てる。この「見立て」というのは演劇にもしばしば使われる手法で、だったらとことん見立てで行ったれというのが今回の演出プランです。

結果、観客の想像力に委ねる部分の多い舞台作品になったけど、そのぶん自由に楽しめることになったんじゃないかなと思っています。

ほんで、この作品をつくって、仕込みしながら思ったことが今回の本題。

北九州に立派な劇場ができて、そこを使ったり育てていただいたり実際に働いたりして15年弱経つけど、その間に少しずつ意識が高くなっていったなあということに気付いた。それはたぶんいいことだと思う。それを「成長」と言うのでしょう。だけど、意識ばっかり高くなっていってて、地に足がついていないと思う公演も多々目にするようになった。

クレジットに「舞台監督」とか「制作」とか入ってるのは立派なことだと思うけど、じゃあその「舞台監督」とか「制作」とかに充分なギャラ払えてるのかというと、そうでもない。「お問い合わせ」って書かれてるけど問い合わせてもなんの返事もない。職業柄「制作」というポジションを厳しめに見てしまう傾向があるんだとは思うけど、制作が制作として機能してないなんてことはザラにある。それなのに「制作」とクレジットするのになにか意味があるのか?

みたいなことをしばしば感じることがあって、それならいっそのこと、「制作? いません」「舞台監督……? わかりません。みんなでがんばります」みたいな態度の方が、健全だし地に足がついてるんじゃないかと思う。

それで今回の大体2mmだけど、音響こそプロフェッショナルに頼んだものの、それ以外は「みんなでがんばる」みたいな感じでやった。舞台にホリ幕みたいな感じでスクリーンを吊ったのだけど、あれ、Amazonで買った10mのロール紙を切って作ったのでした。吊ってたら案の定破れて、「うわああああ」って感じだったんだけど内心「これこれ! こういうアクシデント待ってた!」と思った自分もいた。図面とかタイムスケジュールとかの精度は高くはなかったので、現場合わせみたいなことが何回もあったけど、それが地に足のついた「いまのこのカンパニーの体力」なので、そういうなかでわあわあ言いながらやるのは、単純に楽しかった。

制作者なら知らないものはいないと言われるサイト「fringe」の冒頭には、「芝居」を「公演」にするのが制作者であると書かれているのだけど、いま求められてるのは、もしかしたら「公演」を「芝居」に戻す潔さなんじゃないか、みたいなことを考えた。

おかげさまで大体2mmでは、観に来てくださった方々を割と楽しませることができたと思うけど、なんといってもいちばん楽しませてもらったのは俺だ! と胸を張って言い切れる自信がある。そういう「芝居」ができたのって、もしかしたらもう13年ぶりとかそんなレベルかもしれない。いやー、ほんと楽しかったなー。